2、3年前。
家族関係の悩みについて2か所でカウンセリングを受けた。
それぞれから同じアドバイスをもらったんですよね。
そして心の平穏に確実につながった。
それは「うんと距離を取ってください」というもの。
家族の1人とすごく険悪になってしまってたあのころ。
距離を取るったって難しい…と感じていた。
離れて暮らす家族だけど、自分が年下だからか相手に応えなきゃと思ってたし、従属関係ではなかったものの、やりとりしてると悔しい思いをすることが多く、私はそのたびに自分の正当性を必死で訴えていた。わかってほしいと。
でもなんだかんだ従属関係だったのかも。
相手からの連絡に律儀に対応したりとか、言い分を聞こうと努めたり。
なぜなら家族だから。
そんで家族だからこそ、こっちの言い分も率直に伝えてきたんだけど、今思うと「わかってほしい」ということに費やしたあの膨大なエネルギーは結構無駄だったのかも。
いつも話を聞いてくれる相手にわかってもらおうとするのはいいとして。
話を聞こうとしない相手にわかってもらおうとするのはかなり難しい。
わかってもらえた手応えのないま、悔しさや嫌悪感を胸に積もらせていく。
一昔前のカウンセラーなら、「それでもさらに誠実に対話を重ねてみて」とか言うのかな。
最近では「わかってもらえないならこの話は保留で」とか、「いったん距離を取る」がスタンダードになってるよう。
なぜわかってもらおうと頑張ってたのか
→ 家族だから
なぜわかってもらえなくても頑張ってたのか
→ 家族だから
この「家族だから」が自分内の強固なルールだったことを自覚した時には愕然としたもので。
「家族」というくくりは、なぜか「人間関係」の外に置かれがち。
一般の人間関係がさらさらした川だとしたら、家族は沼。
沼の中にいると川なんて心細くて軽薄な関係性に見える。
自分には濃厚な場所があるという思いは心の支えにもなってきた。
腐りかけた沼でも。
今の宝塚の問題も、運動部や宗教、各種団体でのパワハラに限りなく近い上下関係など、どれも構造が同じに見える。
「自分の所属する世界」と「一般的な人間関係」を別のものと切り分けて、なおかつ自分の属するところを「一般」より上位に位置づけてることから生まれてるように見えますがね。
「〇〇に属している」ことによるメリットや大きな目的があるからこそ、〇〇から抜け出せない。
集団や企業だと上位を掴み取るとか「選ばれし者」になること。
宗教なら教義ごとの目的もあるだろうけど、家族だと「いつでも戻れる場所」「無条件で受け入れてくれるメンバー」という心の拠り所。
集団や企業・宗教も擬似家族みたいなところがある。
幸福なパターンも多いだろうけど、擬似家族が得られるのと引き換えに従属関係が迫られるようなことも、あちこちで問題になっている。
「家族」「家族様のもの」って、なぜこんなにドロドロした意味づけがされちゃってんだろう。
家族だって人間関係の一形態だろうに。