注意・指摘の葛藤


その昔、30代の自分。
仕事において、人に注意・指摘をよくするタイプだった。
今もう、ほとんどしてない。
分岐点はコロナ禍だったか。

職場で「口を開かないならそれに越したことはない」というムードが一気に広がったこと。
「注意・指摘」にハラスメントの要素が濃くなってきたこと。
自分より下の世代に、「指摘されることへの恐怖」を強く感じるようになったこと。

誰も加害者になりたくないしね・・
注意・指摘は「あなたのため」「ひいては会社のため・世の中のため」と、「良かれと思って」やってきたけど、こういうのってもう迷惑な昔マインドでしかないのか。
いったん己を振り返って、「人のこと」に意識を向けること自体控えてみた。

それはそれで培われたものもある。
注意・指摘しなくてもみんな進化しているものです。
それを信じられるようになった。
こういうのを「手放す」っていうの?

でもよ、
怒られたくなさすぎだろう。
いや、怒ってねーけど。指摘だし。
これは若い世代に特有のことと思ってたけど、同世代にも上の世代にも、何か指摘されたり怒られたくなさすぎる人はいる。
「怒られないために」
そこにエネルギーを注いでるんじゃないか。
自分のことしか考えてないように見える。
見えるだけで事実はわからない。

「存在を消してるんです」と言った若者がいた。
怒られたくないから。
目立つとたたかれるから。
疑問があっても押し黙る。
おいおい…と呆れるものの、目立つ人をたたいてきた存在が確かにいたことも浮き彫りになる。
このあたりの溝って、今のところ埋められようもない。

ただ、怒られたくなさすぎる人が「存在の消したさ」のあまりむしろ目立ってしまっているために、明らかなハラスメントが激減した効果はある。
怒られたくなさすぎる人たちの「痛みの反応」はそれくらいインパクトが強かった。
「変わろう」
それがまだ薄い効果しか出てなくても、「これからはそうしなくちゃ」と多くの人が思ってる風は感じる。

ただ過渡期って極端なムードも生み出しますよね。
やけに全肯定の人が増えて、それはそれで「違うだろー」と思ったりもする。



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