最近よく一緒に帰ってる人がいて、そういう機会を嬉しく思うのに仲が深められない。
少し前の自分なら・・
コロナ前の・・
それよりもっと前の30代くらいの自分なら・・
「お茶いかない?」「今度飲みにいこう」と声をかけてた気がする。
「気がする」だけで、振り返ればいつも相手からそう言われてた。
そんで、「いつにする?」と言うのが自分。
コロナになってから、このへんのやり方をすっかり忘れてしまった。
その間に酒が飲めなくなり、しかも少食になったために、こちらから「食」きっかけの誘いがしにくくなった。
同じ帰路の十数分が過ぎ、「じゃあね」と別れる。
また表面的な話で終わってしまったと、なぜか少し寂しい。
ただ「お茶いこう」と言ったって、この十数分の会話で十分な気もする。
私は相手に何を知ってほしいのだろう。
相手の何を知りたいのか。
相手には夫がいて、私には打ち明けることもなく。
誰か・何かへの文句みたいなネガティブなことでしか盛り上がれないことに「もっとなんかないかな」と飽くなき期待を抱き続ける。
すでに仲を深めてる友人のことを考える。
過去に何度か互いに「それってどうよ?」「いいじゃん別に」みたいなちょっとしたぶつかり合いを経ての、今は「それもいいね」というおおよそ全肯定関係。
なぜぶつかり合ったかというと、「ここまで話しちゃうけど」という深刻な打ち明け話があったからと思う。
話す側も聞く側も真剣で親身だったから、「それは違うと思う」とか言いながらも、相手のために何かできないかとすごく考えた時間を積み重ねてきた。
そういう人は1人とか2人とかいれば、本当はもういいのかもしれない。
だから私は新しく仲良くしたい人にまで「わかってほしい!」とはならないんだと思う。
しかも昔の「どっちも独身」とは違う。
独身時代特有の誰かにもたれかかりたい重さを、「引き受けたげる」という勇ましさでしゃしゃり出ることが自分の力にもなったあのころ。
そりゃ、パートナーがいても家族と暮らしてても、別の誰かにもたれたいときはあるんだと思う。
でも、いやに遠慮しちゃうんだよな。
あなたにはもっと近しい人がいるでしょうと。
「いやいや、あなたに話したいんだ」と、言ってほしいのかもしれない。
そういう壁を乗り越える、みたいなドラマチックさは友達形成の折にもいつだってあった気がする。恋愛はもちろんのこと。
そんで昔は真の友達になっていく過程として、
1・お茶か飲みに行く
2・互いの部屋に行く
3・一緒に泊まる
という流れが一般的だったとして。
3はあったりなかったりもするけど、2はマストじゃなかったっけね。
そうすると、これから新しい友達をつくるってやっぱすごくハードルが高い。
余談として、最近ペットを飼った同僚が「ぜひうちに見に来て!」と言ってくれて、そのうち実現するだろうと思っていたら、「この間、あの子がうちに来て」と聞いてそれが意外な人物だったことに軽いショックを受けた。
誰でも部屋に呼ぶのかよ!という中途半端彼氏のような苛立ちが胸に湧いてしまった。
それでも誘いを受けたら部屋に行くか行かないのか?というのは結構な葛藤案件だと思う。